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ソフトウェアエンジニアとして転機(7) [ソフトウェアエンジニアとして転機]

前回は、Fuji Xerox DocuStation IM 200の開発までの話でした。

富士ゼロックスを退職

IM 200の後継機の開発はなく、私自身は1996年8月末で富士ゼロックスを退職しました。1984年4月に社会人になって働き始めてから、12年5か月勤務したことになり、私の今までの経歴で最も長く勤務した会社となります。残念ながら、今年の4月から社名から「ゼロックス」の文字が消えて、「富士フイルムビジネスイノベーション」と変わります。

日本オラクル入社

1996年9月からは、日本オラクルで働き始めました。実は、データベースに関する知識というのは、日本オラクルに入社するまでほとんどなく、入社後の4週間の集合研修で学びました。当時は、中途入社した人達全員で同じ研修を受けました。

4週間の研修期間中に佐野力社長からの講話があって、内容はほとんど覚えていませんでしたが、次の言葉(正確には覚えていませんが)は今でも記憶に残っています。
5年後、10年後に日本オラクルを背負うのは、中途入社の皆さんではなく、新卒新人です。したがって、新卒新人は育てていきますが、みなさんは、即戦力として頑張ってください。
この言葉は、その後、私が若手のエンジニアの育成に力を入れるようになったきっかけです。それ以前の私は、「できなプログラマーにはプログラミングさせるな」という意識が強かったです。

研修が終わって、私自身は、Oracle Applicationsの一つであった人事・給与システムの開発マネージャとして開発の責任を負うことになりました。税制の違いもあり、Oracle Applications中で、日本で開発が許されていたのが人事・給与システムだけでした。

開発マネージャと言っても、一人3役に近かったです。開発のリーダー、開発チームの予算管理などを含むマネジメント、ビジネスパートーナーである日本ユニシスとの交渉役でした。開発内容や予算はすべて、英国へ報告し、そこから米国へ報告されるという報告ラインでした。私がマネージャとして仕事を始めた時点(10月)で、年間開発予算を使い切っていたので、追加予算の獲得のため米国へ出張もしました。

自分自身では開発はしなかったのですが、開発をリーディングする必要があるため、日本オラクル在籍中は、オラクルDB関連の勉強はかなりしました。

朝早くから夜まで、長時間働いていましたが、一人3役で仕事をこなし、自分では開発をしないのは、精神的にもきつく、転職することにしました。

日本オラクルでの思い出

7か月10日と短い期間でしたが、目まぐるしく、色々なことを経験した期間でした。記憶に残っているものを挙げると、以下の通りです。
  • 入社時の4週間の研修。
  • 前述の佐野社長の講話。
  • 同期入社した人達との毎月の飲み会。
  • その年の新卒新人5名を一ヶ月預かっての研修。全員が米国の大学を卒業していました。
  • 当時は、Oracle DBに保存されているPL/SQLのソースコードを見るために、開発者はSQL文を実行していたのには、私自身びっくりしました。それで、若手のエンジニアにJavaとJDBCを使ってビューアーを作成してもらいました。後に、彼が米国Oracleへ異動して、そこでもそのツールが好評だと聞いて、さらにびっくりしたのを覚えています。
  • 日本ユニシスや英国Oracleとのさまざまなやり取り。

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