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ソフトウェアエンジニアとして転機(5) [ソフトウェアエンジニアとして転機]

Xerox PARC(パロアルト研究所)

1991年4月にPARC(Palo Alto Research Center)で働き始めるに先立って、その前にアパートを探すために一度Palo Altoを訪れました。アパートは、スタンフォード大学の敷地に面した通りを挟んだOak Creek Apartmentsに南向きの2ベッドルームを見つけることができました。スタンフォードショッピングセンターも近くよいところで、2年間を過ごしました。

PARCで従事したプロジェクトはPageMillプロジェクトと呼ばれていました。LAからの引っ越しでは、荷物は業者に任せたのですが、LAからPalo Altoまでの約400マイルを妻と二人で車を運転して移動してホテルにチェックインしました。アパートへ入るのではなく、翌日妻を伴って日本へ帰国しました。PageMillプロジェクトに関して米国ゼロックスと富士ゼロックスでの会議へ出席するためでした。

PageMillプロジェクト

プロジェクトのリーダーはZ Smithでした。私と同じぐらいの歳で、彼の部屋の隣に私の部屋が割り当てられました。研究所なのでプロジェクトメンバーは博士ばかりで、彼らの優秀さは半端なかったです。その中で、なんとかプロジェクトのメンバーとして認められるのに必死でした。私の役割は、彼らのアイデアを実際にソフトウェアで実現して検証することでした。
※ ファーストネームであるZは、略したのではなく、本当に一文字のZです。

仕事以外でPARCで印象深かったことがいくつかあります。
  • 研究所内にフィットネスルームがある。
  • カフェテリアで昼食を購入して、会議室でランチミーティングをすることが多かったのですが、昼食のトレイや食器を会議室の近くの休憩コーナーに返却するだけでよかったです。
  • 毎週木曜日の16時からPARC Forumが開催されて、外部からスピーカーを呼んで社外からの参加がよい場合もあれば、Xerox内に閉じた話題で社外からは参加できないものとありました。PageMillプロジェクトも一度ForumでZ Smithが話をして、私はデモ係でした。
  • カフェテリアでの昼食が2時間ぐらいになることも多かったです。11時30分頃に昼食を食べ始めるのですが、食べ終えても色々な人が加わってくるので、食事を終えてからずっと話すことが多く、結果として2時間が経過していることも多かったです。
  • スーツを着た日本人のグループが、富士ゼロックスの営業に連れられて、PARCを見学していることがよくありました。
PageMillプロジェクトは、PC用のソフトウェアとして「PaperWorks」も出したのですが、その成果をデジタル複合機に搭載するために、1993年5月に米国駐在を終えて日本に帰国しました。結局、PARCでの2年間で、富士ゼロックスから駐在したのは私一人でした。これで、私の1回目の米国駐在である4年半が終わりました。32歳でした。

4年半の間に、二つのプロジェクトに従事し、多くの優秀なソフトウェアエンジニアや研究者と仕事して、どちらもカリフォルニアですが2か所(Rancho Palos VerdesとPalo Alto)に住むことができました。一方で、昭和が終わり、ベルリンの壁崩壊サンフランシスコの大地震湾岸戦争ロサンゼルスの大暴動があったのもこの4年半でした。
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